なかなか更新の時間がとれず、すみません。
先日、小金井の稽古で女の子が泣いてしまったことがありました。
男の子が寝技で力の加減が強すぎたのです。
とりあえず稽古の輪から外れて落ち着くまで休んでいてもらったとき、アシスタントのSさんがその子の隣に座ってフォローしてくれました。
しばらくして、私が「もう落ち着いた? 大丈夫かな?」と聞いて輪に戻し、組手をやりたい子を募ると、その子は笑顔で真っ先に手を挙げてくれました。
これはとても象徴的なことだと思います。
人間は落ち込んだり悲しんだりしているときに、まず寄り添ってくれる人を求めます。
それはとても自然なことですが、それだけでは何も変わらないのです。その状況から抜け出す道が必要です。
そして何より、最後は自分の意思で立ち上がり進む意思が必要です。
大人になってもこれは変わりません。
サービス残業をさせられ、上司に意地悪をされ、会社に不満があるとします。
こうした人は同じ境遇の同僚などに愚痴をこぼし、理解と同調を求めます。この会社はひどい会社だ、あの上司は嫌なやつだ、と。
これは寄り添いを求める心ですが、そうした愚痴を酒の席で言って多少のストレスが減ったとしても、状況は変わっていません。
もし、ここで誰かがその人に同調するのではなく「別の会社の求人を見たら同じ職種でもっと良い条件のところがあったよ」と教えてくれたなら、そしてそれを聞いて「そうか、何もずっとこの会社にいなければいけない理由なんてなかったんだ。面接に行ってみようかな」と思う自分がいれば、根底から問題を解決できるかもしれません。
人間の感情は、まず寄り添ってほしいと願う部分が大きいし、Sさんが女の子に寄り添ってあげた気持ちは尊いものです。子供にはそうしたプロセスも、自転車の補助輪のような意味で必要かもしれません。これがカウンセリングなどであれば全く正しい処置でしょう。
しかし、本来、武術には時間の猶予がありません。
相手が今まさに襲ってきているときにどうするか、ということをやっているのですから、落ち込んだり悩んだり慰めて欲しいという暇はないのです。まず問題の解決が先に来ます。そうしないと死んでしまうからです。
武術を学び、それに沿って行動する人は、常にその状況での最善手を考える以外のことをしません。
そうした習慣が出来た人は落ち込んだり悩んだりすることがなくなります。感情より意思が優先するようになるからです。
それは限りある命の時間を悲嘆から開放すること、本当の意味で自分を大事にすることです。人間の本体は感情ではなく意思の方にあります。
そして他人に愚痴を言わなくなると人からも好かれます。誰かを自分の苦しみ、悩みのはけ口にしないことは他者も尊重することになるからです。そうすると物事が上手く回っていきます。
武術にはそんな作用もあると思います。
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